雑記帳

北の地方都市で、見えない左目と見えづらい性質と一緒に生きています。思ったことを色々と。

自分の中にいる自分と、右代宮真里亞の哲学

そういえば昔から、自分の中には何人かの自分がいるような感覚があります。今回はそんな自分のなかの各々の自分の役割について、呼びやすいように名付けていきながら話していこうと思います。

※これらはたとえば多重人格とかではないと思いますので、あらかじめご了承ください。

本来の自分【呼称: 0(ゼロ)】

本来の自分はとてもわがままで、すぐ癇癪を起こし、思い通りにならなければすぐ泣いて暴れます。普段は表に出ることはあまりありませんが、どうしても余裕がなくなった時、近親者を中心にして表出することがあります。

気をそらす自分【呼称: A(エー)】

よく泣いて暴れる0の機嫌をとったり、褒めたりして「気をそらす」自分がAです。

Aは、0のツボをよく分かって様々なセレクトをしますし、たとえあまり面白くなさそうなことでも「わー!〇〇だよ!おもしろそうだねえ!」と大げさに声に出してきて、泣いて暴れる0の気を引きます。そうして泣いていた0が笑うと、よかったととても安心して一緒に笑っているような気がします。基本どこででも、普段表出している部分はAです。ただし私の心身の調子が悪くなると、Aが動くエネルギーがなくなるため、0に対するAのフォローが入れられなくなります。

現実を認識させる自分【呼称: B(ビー)】

またほかにも、現実を認識させるためか、多少手厳しいことを言い急かす自分もいます。問題が起きた際に、解決のための計画を手伝うのもBの役割です。

自分を攻撃する自分【呼称: C(シー)】

昔は0を痛めつけるだけの自分であるCがいました。今は生産性のないことと判断したからか、加齢に伴う体力不足が相まってかあまり出てきません。泣いて暴れるたびに、殴る蹴る等の暴力をもって黙らせようとします。痛みでぐったりするまで暴力をふるいます。Cが出てくると、誰も手だしができません。体の方はひたすら眠るしかできなくなってしまいます。

 

右代宮真里亞の哲学

アニメ「うみねこのなく頃に」episode Ⅳ-Ⅱで、縁寿に「実の母にも愛されていなくて、どうしてそんなに母に都合のいい考えができるのか」と言われた際、真里亞が話した言葉です。

「縁寿はかわいそうな子だね。幸せのかけらは身の回りにたくさん落ちているのに、不幸のかけらばかり拾っている。」

よく考えてみれば、普段からの自分がやっていることに近い気がしました。どことなく救われない印象の真里亞ですが、でも本人はとても幸せ。幸せのかけらを拾い集めているから。これが、私の中で言うAのやっていることのような気がして、なんとなく腑に落ちました。こうあっていいんだなって。

 

 

今回は、自分の中で、自分の役割を割り振って設定しているような感覚について話しました。昔からずっとこうなので、これからもきっとそれぞれに自分の事を任せて生きていくと思います。