雑記帳

北の地方都市で、見えない左目と見えづらい性質と一緒に生きています。思ったことを色々と。

日ごろ思っていることをいくつか話してみる

今回は長文を書くトレーニングがてら、普段から考えていることについて話します。その辺の雑誌の小さなコーナーの随筆を読むような感じで、読んでもらえればうれしいです。

 

 

0を1にするということ

0の状態というのは、寄り掛かれる場所がないことである。

たとえば、全く知らない分野のものに手を付けはじめる瞬間。たとえば、何を欲しているか分からない人を支える瞬間。

私なら、そういう瞬間はとても怖い。何にも頼れないから。指標がないから。だから私は、できる限り積極的に1にしていくようにしている。

素晴らしかったアート、楽しかったイベント、美味しかったご飯、素敵な対応をしてくれたお店、とても助けになった道具、……そういうものたちをとかく文字にする。文字にして話していくのだ。

いつか、それらをつくってくれた人が迷った時、自分のしていることに意味があるのか分からなくなった時、何も見えなくなった時、私の声が、ひとつ星になってくれないかと思うから。ひとつでも意味はあったと思ってほしいから。

しかし、自分なぞが大したことはできないだろう。でもこればかりは、ならない前提で考えるより、なる少数に賭けたいと思ってしまう。いつもの自分とは違って、とても不思議だ。だからこれからもきっと話していくと思う。素敵なものたちのことを。

 

科学者や研究者がいる限り、技術は止まらない

私は基本的に、主体性を持っていなければ他者から関わってもらえないと思っている。でも、技術は違う。科学者や研究者がいる限り、彼らの倫理の範囲で、技術は止まらないでいてくれる。私が、誰が、何を言おうと。

現状私は、その研究の表面をすくいとるだけでよくて、そうさせてもらっている。

私が主体的でいなくても止まらないでいてくれるそれらに今も私は救われているし、これからも救われていく。誰かの血のにじむような努力と願いの先に、小さな私が救われている。

気になった店にふらりと入って、面白そうなものを見つけた時、「自分が一番だ!」と思いそうになる。けれど、決してそうではない。誰かがここまで持ってきてくれたからだ。いつだって先駆者がいて、この場所に置くという"賭け"をしてくれた人がいる。だから私はここで、この道具を見つけることができたのだ。誰かの血のにじむような努力と賭けの先に、小さな私が救われている。

だから私は、その技術にお礼を言う。その技術を見つけたことを示す。それがフィードバックだったり、SNSで発信することだったりする。

 

無理に他者と一緒にいる必要はないが、他者がいるから自分が分かる

他者に合わせること、一緒にいることがつらいと思うことがある。きっと無理に一緒にいなくてもいい。学校でも、職場でも。必要があって関わらなければいけないことはある。でも関わるのがつらい……自分はとうとうそこから逃げてきてしまった、そんなことを考える日がいつか来るかもしれない。

でも、その時の選択は正しかったのだ。いつか後悔するとしても、今後悔していたのだとしても、そこまで含めて、それでいいのだ。今、無理に他者と一緒にいる必要はない。しかし、他者がいることは認識する必要がある。自分と違うものがあるから、自分が分かるのだと思うから。

私はきっと蝙蝠のようなものなのだと思う。超音波を発し、その跳ね返る時間をはかることで、前方の凹凸を認識するような。その先に自分を認識してきた。きっとなんだか、そんなものなんじゃないかと思っている。

 

ふわふわとした言葉ばかりで、とてもむずがゆく思う

自分の書き記す言葉がふわふわしたものばかりで気持ち悪い。説教のようなことはしたくない。できる限り具体的でありたい。堅苦しくなくていい。自分が納得できれば型破りでいい。

しかしネットリテラシー上、ある程度リアルの情報は伏せなければやっていけないし、非常に難しいところである。私の感覚は、常に私の具体的な出来事と結びついている。

しかしどこかに転がっていそうな言葉では、きっとありがちなものになってしまうと思う。父の「人のいない電車に乗れ」という言葉が、今も頭をよぎっている。

 

自分を自分からネタにしていくことの重要性

自分のことをネタにして面白く思ってもらうこと。自分の事を、まずは自分自身が笑い飛ばすこと。それがいかに重要かということを、きっと私は知っている。

私が自分のことで笑っていなければ、他人が笑えないではないか。悲観的であることは重要だと思う。それが現実的にものを考えるのにある程度必要なことだと思うから。しかし悲観的でありすぎては、むしろ現実を止めてしまう。きっとそこまでいってはいけないのだと思う。

「あ、すいません、笑いごとじゃないのに、笑ってしまって……」「いやいやいいんですよ、存分に笑ってやってください」

そんなことを言えるのが、きっと理想だ。毎回アップデートを続ける毎日と、どういう風に見せるかを考え磨くことの先に、私をコンテンツとしてある程度昇華させられるようになればいいと思う。

 

喉を潰されない実験体であればいい

私は究極、喉を潰されない(=意見を言える)限りは、実験体であっていいと思っている。誰も、最初から何でも知っているわけではないし、人間は偏差が激しすぎる。だからその中のサンプルの一つとして自分をモニタリングしてくれるのであれば、それで何か情報的に参考になることがあって、研究の一つとして使えたりするのであれば、それで非常に光栄だと思う。私の生きた証として、きっと残ってくれるとも思うから。

 

 

以上です。ありがとうございました。ここまでで約2,200文字、約1時間で書き終わりました。また気が向いたらやると思います。その時にはよろしくお願いいたします。