某アニメを観てふと心の霧が晴れたという話
昨日、「キルラキル」を観た。
とにかくアツく、とにかく力技、なのに引き込まれる絶妙なバランスのアニメであるように感じる。
このアニメを観ていた時、自分の中に多くあったもやもやが、ふと少し晴れたような気がした。今回はそんな話です。
最近、他者とうまくコミュニケーションが取れなくなっている自覚がより強くなっていた。相手の話をしっかり聞いているつもりなのに、何故か沈黙が生まれてしまう。その沈黙で焦り、結局そればかりが気になってしまう。ここ最近は特にそんな状態だった。
しかしこのアニメを観て、少し正体が分かった気がした。どうも前に捨てたはずの「他者への期待(=完璧主義を他者に押し付けそうになる状態)」が復活しているようなのだ。
いったい何故だろう。キルラキルだからだろうか。この中に、どんなきっかけがあったんだろうか。気になったので、少し考えてみた。
私はこのアニメを、「頭を空っぽにして観られるアニメだ」という認識で観ている。
とにかく情報量が多く、ツッコみどころが多すぎる。しかしとても爽快な作品だと思う。悲観的になりすぎず、緩急で言えば常に急で、インパクト調のフォントに、とにかく飲み込まれる。しかし飲み込まれすぎない。そんな不思議な作品だとも思う。
最初は、「情報量が多すぎて頭がパンクするから」なのかとか、「インパクトに集中するおかげでいくらか注意力が散漫にならずに済むから」なのかとか、色々考えていたが。
結論、もしかして私は「力を余していた」のかもしれないと思った。生活が緩慢として、しかし「力を余して疲れていた」のではないかと思ったのだ。
そういえば最近は外も寒くて、すっかり家に引きこもることが多くなっている。今までは外に出ることで、無自覚のうちに「体力を使っていた」のかもしれない。
何故なら、理由として思いつくことの共通点が「疲れる」ことにあるからだ。
そういえば先日機会があり、ちょうど1年前の自分のツイートを漁った。当時右目の手術の一カ月前の状態だ。ただそれを抜きにしても、総論「他者とコミュニケーションがうまく取れない」「なんだかもやもやしている」内容のツイートが多いような気がした。
これもふまえて考えると、もしや私は、毎年冬になると外に出づらくなることで力を余し、無駄に色々と考えすぎるのではないか?
とりあえずここまで考えついた。
これからは色々と考えすぎる時には外に出たい。きっかけまでは明確には作れないにしろ、外出をやりやすくするための選択肢は得てきたつもりだ。
御託は後回しにして、外に出て疲れることが、今の私には大事なのだと思う。