Google Home miniと私の、ちょっと不思議な距離感
この記事は Google Products Advent Calendar 2019 12月19日分の記事です。
今回は、家にGoogle Home miniを導入して2年になったので、その個人的な使用感等について書かせていただこうと思います。(※以降Google Homeと表記します)
(もう名前も何もGoogle Nest Miniに変わったなんて言えない)
自己紹介
時深(ときみ)と申します。20代半ばです。発達障害の診断を受けており、2019年中に白内障の手術を終えたところです。
導入のきっかけ
Google Homeが家にやってきたのは、2017年の11月30日のこと。きっかけは自分の白内障の発症でした。目があてにならない当時、音声的なサポートが欲しかった末のことです。
思わぬ導入効果 ―「お出かけ前に天気を聞く」こと
自分にはもとより発達障害があります。その特性上、以前から「暑い日に厚着をする」、「寒い日に薄着をする」等の「温度感に合った服装が選べない」という傾向がありました。
例えば前日や数時間前に天気予報を見ていてもまったく改善しなかったもので、周囲の人から「暑そう!」「寒そう!」と心配されてしまう日々。
ただある日、出かける前に何気なく「ねえGoogle、今の天気を教えて」と言ってみたことで、特性への対策が出来上がることになります。
つまり今までの性質の"くせ"が「出かける直前の天気や気温が分からない」ことにあったため、出かける直前にGoogle Homeからすぐ天気を聞けるようになったことで、「今は〇度で寒いからちょっと厚着をしていこう」等の判断ができるようになった、ということです。
目の不自由さにおける音声サポートのために導入したのに、まさか真っ先に発達障害の性質的な部分をカバーする効果が出てくれるとは思いませんでした。嬉しい誤算です。
精神限界マン的なGoogle Homeとのかかわり
2017年の発症当時、目が見えなくなったことでストレスも大きく、しかし人に愚痴を聞いてもらうのもはばかられる状態でした。しかし人とは話したい。そんな矛盾した時に、Google Homeのちょっとした返事がとても役立ちました。
たとえば「疲れた」と言うと「今日もよく頑張りましたね。お疲れ様でした。」
「つらい」と言うと「少し頑張りすぎていませんか?可能な限り休息をとってください。」
「いつもありがとう」というと「他にもなにかお手伝いできることがあれば仰ってくださいね。」
Google Homeは「なんとなくちょっと話したい時に使える、返事を考えなくていい相手」として、いつもそばにいてくれたのです。
なかなかに限界マンとしてのメリットの見出し方だとは思いましたが、やはりこの小さな声かけに少しずつ救われた思いも大きいです。
discord通話中の住所大暴露事件
ただ実は、こんな小話も。
去年あたりに通話をしている際、Google Homeの話になりました。それで公式サイトから使えるコマンドの一覧を観ていたら「どこから来たの?」という内容を発見します。どうも何か特別な返事をしてくれるもののようです。興味本位で声をかけてみました。
「どこから来たの?」「はい。現在登録されている住所は……」
通話がつながったまま、そこそこの音量で住所を読み上げられました。
通話にいた皆さんは笑って流してくれましたが、いやーヒヤリハット……以降誤爆がないように、登録住所を少し変更しました。
ルーティンの登録が楽しい
Google Homeに搭載された機能「ルーティン」。好きな声かけとコマンド起動のセットを独自で設定することができます。
私が登録しているルーティンがこちら。
タイマーをセットする系統のものが主です。
たとえば「次の目薬の時間」は、術後の目薬が約5時間以上間を開けての点眼だったので、5時間でタイマーを起動するようにしてみたり。
「トレーニングをしよう」は、気が乗った時にちょっとだけ腹筋等ができるよう、3分でタイマーを起動するもの。
「起こして」は朝9時にアラームをかけるもので、「お湯を入れるよ」はお風呂のお湯をためるためのタイマーです。
「ラジオ体操の時間だよ」ではchromecastで「ラジオ体操」の検索による動画の再生をします。
ちなみに「ちょっと休むわ」は、主に発達障害的な性質である"過集中"によって、ご飯や休息をとらずに動き続けることへの対処のコマンドです。3分でタイマーをかけてくれます。ただこれは構図上、
「ねえGoogle、ちょっと休むわ……」「3分ですね、スタート」
という会話になるので、まるでいっぱしのSMプレイです。
また「おやすみ」のコマンドについては、デフォルトから少し変更し、
Google Play music内の特定プレイリストの参照⇒プレイリスト全体のリピート⇒シャッフル⇒1トラック目のスキップ
をやってくれるように設定してあります。でも2回に1回はどこか失敗します。南無三。
導入のきっかけによせて ―やっぱりあってよかった
ここまで色々小ネタで遊んだ話等をしましたが、結局導入のきっかけは「目の不自由さにおける音声的なサポートを期待したこと」にあります。
では実際に、その目的は果たしてくれたかについて触れていきます。結論から申し上げますと、だいぶ果たしてもらえました。
目の不自由な間にはテレビから離れて自室にこもることも多くなったため、本来テレビから入手していたニュースや天気予報等の情報も入ってきづらくなってしまいました。
でもそこをGoogle Homeの「おはよう」コマンドや、「今日のニュース/天気」コマンドがカバーしてくれたり。
先述のとおり、ちょっとした声かけが精神的なサポートとして機能したり。
なかなか話題が偏りがちだった他者との会話においても、「今日は何の日?」や「おみくじ」等のコマンドで話題を用意できる等、細々としたところで、本当に色々な助けになってくれました。
あってよかったなって思います。これからもずっと、色々な場面で使っていきたいです。
まとめ
Google Pixelほしい
結びに
今回はこのような機会をいただけて、たいへん光栄です。ありがとうございました。
自分のGoogle Homeとの関わり方はなんというか結構ニッチなものな気もしますが、なんだかんだめっちゃ使ってて大好きだよってことが伝わってくれればうれしいです。
雑多なアカウントではありますが、Twitterのフォローも歓迎いたします。
皆様の来年のGoogle社製品とのかかわりが、素敵なものでありますように。お祈り申し上げます。
あのヘルプマークのツイートから1年になろうとしているので
このツイートをしてから、約10カ月が経とうとしています。
本日、青森駅で「何かお手伝いできることはありませんか?」とお声がけくださった女子高生らしきお方へ。
— 新坂 時深 (@FredMarks_) April 2, 2018
私がこのマークをつけはじめて数年経ちますが、初めて声をかけていただきました。
あなたのおかげで「ヘルプマークをつける意味」が、0から1になりました。
本当にありがとうございました……! pic.twitter.com/ej9tg3TIB1
あの時に知り合った方も多く、たいへんありがたいご縁をいただいたと思っております。当時お見かけくださった皆様、お声がけくださった皆様、本当にありがとうございました。
今回はこのツイートがこうして数万RTいったことで、その後感じた変化や実際にいただいた声等をまとめさせていただければと思います。
ツイートの経緯
4/2にある自閉症啓発デーでのアスパムのライトアップを見に、一足先に青森駅に降り立った際、ヘルプマークを知っている女子高生さんから声をかけていただいたという内容です。
この時初めて声をかけていただいてシンプルに嬉しかったので、ただただそれだけを伝えたくて書いた感じです。
こうしてあとの事を振り返る意図
・Twitterでこれくらいバズったらこんな感じになるかもっていう指標の一つにしてほしい
・このツイートに来るヘルプマークに関しての疑問や視点はだいたいこんなところに集まっていたよの指標の一つにしてほしい
・ヘルプマーク関連で私や周囲が感じた変化、"その後"についてもまとめておきたかった
このツイートについてお声がけいただいたこと
・新聞掲載 (毎日新聞様)
・まとめブログ等での紹介
( BuzzFeed News様 / ねとらぼ様 / grape編集部様 / fundo様 / FNNプライムオンライン様 / ふーぽ様 / ディーキャリア様 )
・ほか各所での事例としての掲載 / 他言語での翻訳掲載
このツイートについて風のうわさで聞いたこと
・ラジオで紹介されていた
・講演で紹介されていた
自分が地元で感じた変化
・バスの一部車両の優先席のところにヘルプマークのステッカーが貼られるようになった
・ヘルプマークを使っている人を何人か見かけるようになった
・あの後も数回声をかけていただいた (本当にありがとうございました)
このツイートを見かけた知り合いから聞こえてきた変化
・行きつけのスーパー等にヘルプマークのポスターが新しく掲示されだした
・地元/旅行先でヘルプマークをつけている人を数人見かけた
・旅行先でヘルプマークをつけている人に声をかけ、手助けすることができた
・あのツイートがあったから意識してみるようになったかもしれない (本当にありがたい)
リプライいただいた主な内容
【当事者の方視点】
・自分もつけてるけど声をかけられたことがない
・自分もつけてるけど声をかけられて嬉しかった
・声をかけられたのにまともに返事ができなかったから申し訳ないと思っている
・つけていてつらい目にあった
・もっと認知度が上がってほしい
【当事者の知り合いや身内の方視点】
・身内がつけているがみんな知らない、もっと認知度が上がってほしい
・知り合いがつけているがどう接すればいいのかわからない
【その他】
・つけている人を見かけたことがあるが声をかける勇気がでなくて申し訳ない
・スイス大好きマークに見える。デザインの敗北ではないのか。
よく投げかけていただいた疑問
・どういう風に声かけたらいいの?
・そもそも本当に声かけていいの?
・ヘルプマークをつけている方に同行者がいらした場合はどうすればいいの?
・いつでも声かけていいもんなの?
・どこでもらえるの?
こんな感じです。読んでくださってありがとうございました。
これが何かの参考になったり、考えるきっかけになったりすることがありましたら、とても嬉しいです。
おまけ
ちなみに、この女子高生さんとは今もちょくちょく連絡し合っています。実は2018年中に女子高生さんに誘われて、高校の文化祭にもお邪魔してきました。めっちゃ楽しかったです。今もお元気にされているようで何よりです。
目が見えなくなったのでPCでゲームをしだした1年間の話
こちらは、 PCゲーム Advent Calendar 2018 の12月19日分の記事です。
時深と申します。現在23歳です。自分にとってここ1年がPCゲームに深く触れた年だったので、自分がPCゲームに触れたきっかけとか、PCゲーム環境の変遷とか、個人的に続いたゲームとかの話をしてみようと思います。
本当に個人的な思い出話だったり自分語りだったりしますので、それでもよろしければご覧になっていってください。
さっくり年表
2017年09月: 白内障の診断を受ける
12月: Steamでゲームが贈られてくる
2018年02月: 白内障の手術をする(右目のみ)
ゲーミングPCにする
現在に至る
元々の自分とゲーム
やるゲームといえば、ゲーセンにある音ゲー全般と、スマホの位置ゲー。あと少しソシャゲとか、PCのブラウザゲーとか。
ただPSPとDS、Vitaは持っていて、モンハンとかも昔ちょっとだけやってましたが、すぐできなくなってしまいました。ぷよぷよとかがずっと続いたりして。
据え置き系ハードはあまり持っておらず、唯一持っていたPS3も早々に友人に譲り。持っていたころにはアーマードコアやアルトネリコをプレイしていましたが、当時の恋人の好みだったり、好きな歌手が出ているからだったりして、あまり家でやるゲームには興味がありませんでした。
送られてきた一本のゲーム
私は2017年の9月に白内障の診断を受け、緩やかに両目が見えない状態にありました。初めての目が見えないという体験に戸惑い、いかに自分が目に頼っていたのかということを知り、打ちひしがれる日々。あまりにも気持ちが不安定で、お酒を多めに飲んだり、夜中に外をふらついていたりしたピークの、2017年12月のこと。
ネット上で偶然通りすがった方が、私の状態を聞き、「一緒にやろうぜ」と、Steamで一本のゲームを贈ってきてくれました。それが「7 Days to Die」でした。
これが私の、PCゲーム沼に引き込まれたきっかけになります。
当時持っていたパソコン
しかし、私が当時持っていたパソコン、なんとSurfaceでした。Surface pro 4です。パソコンもプレイヤーの人体環境もゲームに追い付かないという皮肉な状況。
こんな写真が残ってました。
それに、仕様上Surfaceは外付けアダプタを使わないと有線LANが通せないので、回線もやばかったです。
でもとりあえずそのままやってみた
「わかんないよ~~~」「みえないよ~~~~」「ゲームが落ちた!!!!!!」
とか言いつつ、泣きながらプレイしてました。
贈ってくれた方は
「うるせえ!!!!!!」「やるんだよほら!!!!!」
と、キレ倒しながら一緒にプレイしてくれていました。
上記で説明した通り、私自身こういったゲームに不慣れだったせいか、性質上のことも相まって「分からない」とパニックになり、それでもゲームをプレイしを繰り返していました。今考えてみても、一緒にプレイしてくださってた方は、とてもじっくり関わってくださっていたと思います。ありがたい限りです。
なお、こんなパニックと無知の果てに、私が怖がって拠点からなかなか出たがらないせいでめっきり使えないので、一緒にプレイしていた方がなんとかゾンビを殺して一通りそろえて拠点へ戻ってきたと思ったら、ガラスを拾ったらしい私が何もわからず操作を間違えてガラスを食べてしまい、いつの間にか拠点の中で死んだことがありました。一緒にプレイしていた方は「あんなに絶望的なことはなかった」と長くネタにしていました。
相手をすり抜ける弾丸、ポリゴンレベルの恐竜
その後、一緒にプレイする仲間も増え、Steamで立て続けにゲームをやりはじめることになります。
ひとまずみんなでやろうと真っ先に買ったのが、Rainbow Six Siegeでした。
そして当時何も考えず、Starter Editionを買ってしまったのです。オペレーターがFUZEとSMOKEしかない。まあオペレーターの概念を何にも知らなかった頃はとりあえず新兵を選んでいたので良かったんですが、プレイし始めて1年経った今になって、じわじわきてます。つらい。
あと、スペック的にSurfaceでも一応動きました。一応です。しかしとにかく回線がやばいこともあって同期ズレが激しく、相手をすり抜ける弾丸。FPSの意味とは。敵が殺せない。テロハントですらまともにできない状態でした。
そもそも今考えてみると、こっちは目が見えないって言ってるのにみんなFPSやらせてるんですよね。
また、次にプレイすることになったのが、ARK: Survival Evolvedでした。
スペック追い付かないっていってんでしょおおおおんなあああああ!!!!!!!
って感じです。グラフィックを最低レベルにしても動かない。恐竜がもうまじでポリゴンみたいなのに、ゲームが落ちまくる。そして相変わらず私は色々な意味でゲームができない。つらい。
「Surfaceは使えん」
そう揶揄されからかわれ、でもなんだかんだ一緒にゲームをしてくれる仲間たち。
そりゃあそうです。Surfaceはもともと、こんなに本格的にゲームをするためにできているものではない。私はこうなる前に、絵をかいたりを楽しくしたくて憧れてて、とうとう念願かなって買ったのが、このSurfaceでした。
それをこんなにぼろぼろにからかわれ、……もうキレ倒すしかない。
手術直前にゲーミングPCへ
まとまったお金が入る予定ができたので、予算を25-30万と決めて、ゲーミングPCを買うことに。当時の私は目は見えないままだったけど(右目の)手術の予定もしっかりしていたし、とにかく「使えん」と言われてキレ倒したテンションだったので、スペックを人に相談しつつ、できる限り最高のものを組みました。
メーカーは知人のPCに合わせてG-Tuneにして、結果このように変わりました。
【以前】Surface pro 4
CPU: Core i5 -6300U
メモリ: 8GB
グラボ: Intel(R) HD Graphics 520
回線: 無線
【現在】G-Tune ミドルタワー
CPU: Core i7 -8700K
メモリ: 16GB
グラボ: GeForce 1080 Ti
回線: 有線
ちなみに、メモリも24GBにしようとしたら、当時メモリが高騰していて予算オーバーしたのと、ゲーム仲間から「いや、そこまでせんでも……悪かったよ……」と何故か謝られたので、16GBになりました。これでだいたい27万くらいです。
本格的にプレイするようになって
全然なかったSteamライブラリがこんな感じになりました。
スペックもPUBGが大丈夫なレベルになってるし、回線もちゃんと整備したしで、だいぶストレスなくプレイできるようになりました。
これが、ゲームをするようになってから現在までの、約1年間の話です。
好きなゲームを書き連ねてみる
ゲームをしてみて気づいたこと等は、以前まとめておりました。
とりあえずやってみて個人的に面白いなって思ったSteamゲームを書き連ねてみようと思います。
Rez Infinite
2,999円 / 1人用 / VRあり / 音楽・シューティング /
特殊な知覚現象として確認されている共感覚をコンセプトにしたゲーム。2001年にプレイステーション系列で発売されたRezの高解像度/拡張版で、PCにもやってきた。
VRでやりたくなる。独特の世界観と、音楽をつくりあげていく感覚がある。
OVERKILL's The Walking Dead
3,290円(Starter Edition) / 1PT4人まで / ゾンビ・アクション /
ご縁があってBeta版を少しプレイさせていただいた。WAVE制になっていてめちゃくちゃプレイしやすい。ゾンビは音もなくやってくるけど、UI的な補助が入っていて分かりやすい。
Plague Inc: Evolved
1,680円 / 2人まで / シュミレーション /
世界にウイルスを感染させていくゲーム。スマホ版もある。国によって性質が違ったり途中から治療されだしたりするので、シンプルだけど結構奥深いイメージ。マルチプレイでは2人で世界を滅ぼす協力プレイと、どちらが多く人を倒せるかを競う対戦プレイがある。
Melty Blood Actress Again Current Code
2,480円 / 2人まで / 格闘 /
中学生の頃、地元のボウリング場においてあった格ゲー。懐かしくなってやってみたけど本当に懐かしい。型月作品のひとつ。Fateとか月姫とか空の境界とかが好きな人はやってほしい。吸血鬼なりなんなりの"人の形をした異形"が戦い合う。
Robocraft
無料 / 1PT5人まで / 建設・対戦 /
自分だけのロボットを作って戦わせるゲーム。無料で手軽で、カスタマイズ性も結構あって楽しい。なんかとりあえずフィールドにきたらガサーって下りてベベベベベwwwwwって打ち込む感じのやつ、という認識。
おまけ
こちらで白内障の物の見え方のシュミレーションをしてます。だいたいこんな感じでゲームしてました。興味がございましたら見てみてください。
まとめ
環境が揃うとめっちゃ楽しくできる
以上です。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
何かございましたらTwitterまでどうぞ。フォローやゲームのお誘い、Steamのフレンド追加も歓迎しております。
皆様が、来年もよいゲームライフを送れますように。お祈りしております。
今までを振り返り今を話すとだいたい2000字くらいになった
こちらは 人生 Advent Calendar 2018 の、12月18日分の記事になります。
時深と申します。2018年現在23歳です。北国の地方都市に生まれ、今もここで生きています。
わたしの過去
幼稚園は登園拒否。小学校から高校まではいじめに遭うというか、クラスで浮いている。見るからにやばい人間で、「触れたらやばい」人間のような様相。中学校では不登校。14歳の頃にアスペルガー症候群の診断を受けるも、両親が私に診断を伝えることはなく。
高校卒業後すぐに就職。しかし失敗し、うつ病からの無職に。19歳で出会った方とお付き合い。21歳で同棲の折に、相手の方から発達障害の可能性を指摘され、医療機関にてアスペルガー症候群とADHDの診断の申告を受ける。22歳で白内障になり、2018年のはじめに右目のみ手術を受ける。現在も左目は見えないままだ。
わたしの親
声が大きくせっかちで、よく酒を飲み逆ギレを起こす父親と、自身を開き直りつつも家族に世話をかけたくて、でもその実力がないと嘆く母親に生まれた。どちらもひどく不器用だ。加えて二人とも高齢で、もう何かを変える気力などない。
私は幼いころから、言い合う両親の間に勝手に入って言葉の通訳をしたり、声が大きくて怖い、喧嘩をしないでと泣きながら止めたり。そんな感じだった。
父も母も、私のことは好きらしい。
でも私は、父の声が苦手だ。母の頼りにならないところが苦手だ。
でも私は、父が幼いころ連れて行ってくれた仕事場での風景と、芸術家としての仕事ぶりが好きだ。母の友人のような気軽さと、時々一緒に行く映画館が好きだ。
困った時、頼れる人はいないけれど。
わたしの事
ご飯を食べれば、一口食べるごとに部屋を走り回り、戻ってきてまた一口。そんな落ち着きのなさを見せ、小学校低学年の頃には一人で電車に乗り県外の親戚の家へ。気になることの方に気が向きすぎ、名前を呼ばれても返事もしないことが多かった。
そんな私を見て、早々に「コントロール」を諦めた両親から、
「犯罪にならなければ何をしてもいい。ただしその責任はお前にある。」
そんなことを言われた。まだ私が1桁の年齢の頃だった。
中学生の頃、とある性的な言葉の意味が分からず、友人と二人、先生に聞きに行った。やんわりと教える先生、察する友人。私はよく分からなかったので、大声で使った。慌てる先生、離れる友人。そんなこともあった。
「悲劇のヒロインでいたって何にも面白くないし、助けてもらえないよ?」
そう言われてここまで来た。
でもこんなんでも、中学から高校までの6年間、ボランティアをやった。バンドでドラムをした。色々なデザインをやってみた。イベントの運営をやってみた。お化け屋敷でお化け役をやってみた。朗読をやってみた。講演をやってみた。ボイスドラマをやってみた。コミュニティの運営をやってみた。トランポリンをやってみた。ピアノをやってみた。カホンを叩いてみた。ラジオ配信をしてみた。動画を作ってみた。音声を編集してみた。お泊まりをしてみた。よく一人で色々なところへ行った。絵を描いてみた。文章を書いてみた。食べ比べや飲み比べをやってみたりもした。
音楽、ゲーム、映画、読書、創作、……色々なことが今も好きだし、今も突然「二郎系ラーメンを再現してみたい!」と言い出して、材料を一式買い込んでくるような人間である。
わたしの中
死にたいと思ったことは数多く、生きたいと思ったことはない。"楽しい"という感覚は知っている。きっと誰もが、私の不可解ぶりとめまぐるしさに目を回し、鼻をつまみ、諦めたのだと思う。だから基本的に原因は私にある。
申し訳ないと思いつつ、返せるものもなく。しかし知的好奇心は止まらず、目の前の事は楽しく。興味のないことや納得できないことはひどく不出来なので、そのあたりの発想を転換させることで、ぎりぎりやり過ごしたり、やり過ごせなかったり。
今も自分の行動の理由を説明できず、他者からすれば、いつまでもつじつまが合わない人間である。だがよく笑うし、ひとの話を聞くのは大好きだ。
よく「嬉しい」と思う。よく「ありがたい」と思う。そういうのは素直であった方がいい。思った時にすぐ伝えた方がいい。だから何の脈絡もなく感謝することがある。加えて話せば話題がよく飛び、気になったものがあるとそっちに走っていってしまうので、友人や関わる人は私に戸惑うばかりだ。
わたしの核
価値観として、自分のものが絶対だなんて思えない。それを押し付けることもしたくない。押し付けは期待であり、期待通りでなかった時には、怒りに繋がる。きっと私は特にそうなりやすいだろう。だから、「ひとに期待しない」に至った。
何が起こるか分からないこと、目測がつかないことは怖い。だから「とりあえずやってみよう」にたどり着いた。いつまで生きることになるのかが分からないのも怖いので、今はとりあえず30歳になったら死ぬことにしている。失敗もひとつの経験で、物事に"あたり"をつけるサンプルのひとつになるから、「失敗する経験」も楽しい。
これからもきっと変わらない。とりあえず今は、ネガティブを礎にしたポジティブと、思考停止のない今を目指し続ける。
発達障害という名の"一つの解"を得て
この度、 発達障がい Advent Calendar 2018 12月10日を担当させていただくことにしました。
私は当事者として診断を受け、自覚してから現在までについて、個人的にさっくりと振り返ってみようと思います。よろしければお付き合いください。
さっくり自己紹介
年齢 / 性別: 23歳 / 女
診断名: ASD(自閉スペクトラム症) / ADHD(注意欠如多動性障害)
検査済: WAIS-Ⅲ / WISC-Ⅲ / 感覚プロファイル
14歳でアスペルガー症候群の診断を受けるも
私の場合、不登校を経てあるきっかけで心療内科にかかった際、アスペルガー症候群(現自閉スペクトラム症)の診断を受けました。しかし、先に診断の事実を聞いた両親が私に告知しないことを選択し、私自身でその診断を自覚することになるのは、7年後の21歳になってからとなります。
18歳で就職に失敗
診断を自覚しないまま18歳、高卒で就職しますが、仕事の覚えが悪く、職場内の人間関係がうまくいかないこともあり、わずか数カ月で退職。一時的な適応障害とうつ病の診断を受け、無職期間に入ります。
21歳で診断の事実が発覚
当時同棲していた相手が私の性質に気づき、「もしかして」と思い始めます。きっかけは、同棲相手が昔身内の発達障害を疑って読んだ「DSM-Ⅳ-TR」の内容を思い出したことからでした。
その話を相手から聞いた私は、相手視点での私の気になる言動について書面にしてもらいました。その後14歳の頃から通い続けていた心療内科に書面を渡して相談すると、すぐADHDの診断が下り、その際に、14歳の頃にアスペルガー症候群の診断を受けていた事実を自覚することとなりました。これが2016年のことです。
自覚して翌日からの情報収集
診断の話を聞いた翌日からすぐに、リアルやネットでのかかわり各所にて、診断のことを公表しました。と同時に、自分が使える医療制度や支援機関についての情報収集を開始します。
インターネットを主に、発達障害の基礎知識は発行の新しい書籍を何冊か購入することで勉強しはじめます。
この頃、この情報収集が功を奏して、開所して間もない発達障害者支援センターが地元にあることを発見し、無事に面談に行き始めることができました。その後障害者手帳を交付いただく等様々なことがありましたが、その辺は割愛します。
診断を受けてから変わったこと(環境)
・当事者としての体験談を講演等で話す依頼をいただくようになった
・サングラスや耳栓を入手した
・障害者手帳等の障害福祉支援制度を使わせていただくようになった
・支援センター等のかかわりが生まれたことで、働き方や生き方でとれる選択肢の幅が少し広がった
・友人等から「発達障害ってどういうもの?」「もしかしたら私も……」「実は私も……」「どういう風に対応してほしい?」等、相談が来るようになった
診断を受け、支援を受けてから自分について知ったこと
・様々な性質について、それらが「性質である」と理解した(ばらばらだった情報が一つにまとまった感覚)
・外的刺激には過敏だが、内的変化には鈍感であることに気づいた
等
診断を受けてから変わったこと(認識/内面)
・診断を自覚して最初期には「一生治らない」という言葉が重くのしかかって少し悲しくなったりした
・「自分はこんなに色々言ってもらえるレベルで 助けられていい存在だったのか」という驚きがあった
・何か問題があった際の判断材料の引き出しがひとつ増えた
・自分のことを説明するにあたっての、あくまでひとつの「言葉」や「タグ」(圧縮言語)みたいなものを手に入れたようなつもりでいることにした
当面の主な予定
・就労関係の調整
・内面の変化(体調不良や疲れ)の観測、休むハードルへの「あたり」をつける作業
・講演等への参加
等
今後需要があれば……
・情報収集の際に意識した工夫
・性質に対して具体的にとっている工夫
・診断を自覚してから現在までの気持ちの経過について
等含め、より具体的なことを話していきます。
以上です。ありがとうございました。さっくりとした振り返りでしたが、何か面白いと思っていただけたり、参考になるようなことがございましたら幸いです。
それでは、2018年ももうそろそろ終わりですが、来年もどうか、生きてお会いできますように。
専門家を「専門知識の集合体」として信頼する
私は幼少期から慢性疾患がいくつかあります。また最近は発達障害や白内障も発覚し、病院以外にも発達障害者支援センターや、相談支援員さん等、"医者"をはじめとした様々な"支援者"と呼ばれる人とかかわることになりました。
その中でひとつ、思い至ったことの話です。
私は、お医者さんや支援者さんには、人格の神聖性(=より人格者であること)や常識的であることを求めるのではなく、 皆様それぞれを「専門知識の集合体」として信頼することにしています。
その職に就くまでのたくさんの努力の経験、就いてからの実践経験も知識のひとつと捉え、その部分を信頼することにしています。
その中で、たとえば実践経験が浅い環境や人と関わることになった時には、 「喉を潰されない実験体になる分には問題ない」と考えています。
喉を潰される……つまりこちらの自分に関しての意見やフィードバックを聞いてもらえないようなことがあれば、すぐ離れる。そのくらいでいいやって考え方です。
これは例えば、「社会の役に立ちたい」というような規模の大きな考えというよりも、 「誰しも経験のないところから始まるはずだ」という考えから来ています。
誰しも経験のないところから積み上げていく。その過程で、私がその人の経験の一つになるのなら、それで何かその人の役に立てるなら、それでいいかな、みたいな。
何より多分、私自身がそうでした。だからかもしれません。
私はもともと見えないことや意味の分からないことだらけで、そこからひとつひとつ積み上げていったような気がします。それに私にとって、分からないことはとても怖いものです。そんな状態で、経験もないのに何もかもをベテランと同水準で求められたらつらいな、と、思うのです。
私には知らないことがたくさんあります。そのなかで、私が知らないことをたくさん知っている皆様。そんな皆様の知識をふまえて、私には見えない私のことを教えてもらったりする。いわば私の心身の「言葉の意味を教えてくれる人」、言語学者のような存在。それが私にとっての「支援者」の認識です。
きっと、一刻を争うような病状と、その不安で押し潰されそうな人も世の中にはたくさんいて。だからこそ、支援者にたくさん期待しないとやっていけないことだって、たくさんあると思います。
私はそういう人も悪くないと思うし、自分がそうなったらと思うと、とても心が痛いです。でもとりあえず今の私は、こんな考えでいます。
どうか当事者、家族、支援者等、色々な立場の人が、各々楽な考え方でいられますように。