雑記帳

北の地方都市で、見えない左目と見えづらい性質と一緒に生きています。思ったことを色々と。

専門家を「専門知識の集合体」として信頼する

私は幼少期から慢性疾患がいくつかあります。また最近は発達障害白内障も発覚し、病院以外にも発達障害者支援センターや、相談支援員さん等、"医者"をはじめとした様々な"支援者"と呼ばれる人とかかわることになりました。

その中でひとつ、思い至ったことの話です。

 

私は、お医者さんや支援者さんには、人格の神聖性(=より人格者であること)や常識的であることを求めるのではなく、 皆様それぞれを「専門知識の集合体」として信頼することにしています。

その職に就くまでのたくさんの努力の経験、就いてからの実践経験も知識のひとつと捉え、その部分を信頼することにしています。

 

その中で、たとえば実践経験が浅い環境や人と関わることになった時には、 「喉を潰されない実験体になる分には問題ない」と考えています。

喉を潰される……つまりこちらの自分に関しての意見やフィードバックを聞いてもらえないようなことがあれば、すぐ離れる。そのくらいでいいやって考え方です。

 

これは例えば、「社会の役に立ちたい」というような規模の大きな考えというよりも、 「誰しも経験のないところから始まるはずだ」という考えから来ています。

誰しも経験のないところから積み上げていく。その過程で、私がその人の経験の一つになるのなら、それで何かその人の役に立てるなら、それでいいかな、みたいな。

何より多分、私自身がそうでした。だからかもしれません。

私はもともと見えないことや意味の分からないことだらけで、そこからひとつひとつ積み上げていったような気がします。それに私にとって、分からないことはとても怖いものです。そんな状態で、経験もないのに何もかもをベテランと同水準で求められたらつらいな、と、思うのです。

 

私には知らないことがたくさんあります。そのなかで、私が知らないことをたくさん知っている皆様。そんな皆様の知識をふまえて、私には見えない私のことを教えてもらったりする。いわば私の心身の「言葉の意味を教えてくれる人」、言語学者のような存在。それが私にとっての「支援者」の認識です。

 

きっと、一刻を争うような病状と、その不安で押し潰されそうな人も世の中にはたくさんいて。だからこそ、支援者にたくさん期待しないとやっていけないことだって、たくさんあると思います。

私はそういう人も悪くないと思うし、自分がそうなったらと思うと、とても心が痛いです。でもとりあえず今の私は、こんな考えでいます。

どうか当事者、家族、支援者等、色々な立場の人が、各々楽な考え方でいられますように。