雑記帳

北の地方都市で、見えない左目と見えづらい性質と一緒に生きています。思ったことを色々と。

【ちょっぴりエッセイ】人との関わり方について(4本立て)

今回は「人との関わり方について思うこと」というテーマで、エッセイを4本ほど置いていきたいと思います。

なんとなく、自分の考え方を記録するつもりで書いてみました。

全体で3000字ほどになりましたので、気が向いたときにでも、気が向いた部分を、ゆるりと読んでくだされば嬉しいです。

 

【ざっくり目次】

「励まし」という蜜への自覚 : 安易にアドバイスをすることに見え隠れするリスクや状態について

私は君のすべてを知り得ないから : あくまで私はあなたのその一面を知らないだけかもしれないということ

"他人に期待しない"ということで得る境界線 : 自他境界の甘さによる相手への期待や理想像の押し付けについて

経験則によるただの不安 : 優しい人だと思われて依存された経験によせて

 

 

 「励まし」という蜜への自覚

人と話していると時折、「相手の事情を聞かずに二言目にはアドバイスをしてくる」という状態に遭遇することがある。

ディズニーの映画に「インサイド・ヘッド」という映画がある。この作品では感情がそれぞれキャラクター化して描かれているのだが、作中で悲しいことがあったキャラクターに対して、ポジティブな感情(ヨロコビ)が相手を励まし続け、相手からやんわりと遠ざけられてしまうシーンが存在する。

これをふまえても、相手の事情を知らない状態での助言は「悲観的/批判的な状態を許さない」状態を作り出すと考える。

たとえば共感性羞恥*1的性質がある人がこういった行動に出る場合は、それはあくまで「相手がつらそうにしていることに共鳴してうまれた自分のつらさを解消したい」がためにそういう行動をしているに過ぎないというのが、私の持論である。

それって結局、「相手のためにしてあげたのに」と思いつつ、無自覚に自分が楽になるためにしていることなのではないかと思うのである。

こういった状態の裏では、無自覚に「相手を救っている」状態に依存している場合がある。その場合、より重くなればメサイアコンプレックスと呼ぶような状態になっていくのではないだろうかと思う。

相手に対してできることはいつだって少ない。しかしそれへの後ろめたさと、つらさへの共鳴については、自覚していきたい。

また、相手に対して何かできることはないかと思いつつ、結局自分のために物事を行っているということも認識し続けていたいものであるし、
誰かに何かを助言する場合には、まずもって相手の状況を深く聞くことから入りたいものである。

 

 

私は君のすべてを知り得ないから

「あいつって口だけだよね」という言い方が存在する。

しかし私は、当人が「口だけの人間」かどうかなど、当人を見ている他人それぞれによって変化するのではないかと、最近思い始めた。
たとえ本人がどこかで何かを成し遂げていても、その場にいない人や、その一面を知らない人、伝え聞いただけの人等からみれば、結局「口だけの人間」になってしまうのだ。

つまり、本人が何かを成し遂げている場にでも居合わせない限り、知らないことや知り得ないことに対しては"想像"の域を出ないのである。
それはあくまで"想像"であって、"事実の確認"にはなり得ないのだ。

加えて「成し遂げる」にも価値観的なグレードの偏差が存在するので、「成し遂げていてもそう見えない」状態もあり得る。

なので、その部分に批判的になったり呆れたりすることに、私はあまり意味を感じていない。

人は、様々な一面が複数存在する形で、多面的に構成されていると思う。そのすべてを知り得ることなど、ほぼ不可能だと思う。

だから相手に対して「口だけだ」と思った時、単に私がその人の「成し遂げている」姿を知らないだけなのかもしれないと、思うことがあるのだ。

 

 

"他人に期待しない"ことで得る境界線

私は"他人に期待しない"ことをモットーとしている。
人は聖人君子ではない。人には調子が良い時も悪い時もある。
しかし相手の様子がいつもと違う時、「自分が何かしてしまったのでは」と"常に"考える人に時折遭遇する。

しかし個人的には、自分が常に誰かに影響を与えていると考える方が、確率的にはもはやオカルトに近いのではないかと考えている。というより、そう考えるのが賢明ではないかと思う感覚もある。
「自分が何かしてしまったのでは」と思っておくことによって、結果的に自分に厳しくいられて他人に優しくなれるという状態像は想像できるが、
その行動が必ずしも他人に優しい結果をもたらすかというと違うと思うし、
この考えを口に出してしまえば、他人にフォローさせる状態しか生まないのではないかという感覚もある。

相手に勝手に理想を抱き、そこから外れると理想と違うと怒り出すのは、
自他境界が曖昧なのではないかと思うし、人との関わりというより"偶像崇拝"に近いように思う。
これをされた側からすると、「勝手に憧れられて、勝手に幻滅されて、何故か怒られている」という状態になる。

つまり私の中にある"他人に期待しない"ということは、自分なりに自他境界をはっきりさせることで、「相手に対して勝手に理想像をつくらない」ことであるのだ。

自他境界が曖昧だと時折忘れがちだが、誰がどこに主張を持ち、"芯"を持ち、「頑張りたい」と思うのか、「頑張らねばならない状況であるのか」ということは、人によって千差万別なのである。
なので私は、自分の頑張りも認められていいし、しかし他者の頑張りも認められていいのだと、強く思う。

 

 

経験則によるただの不安

これは単に、過去の経験による不安と不満の話だ。

私はとても不器用なためか、嘘がつけない。だから嘘は言わない。
しかし、何度か依存されたことがある。
それらの前提で話すが、私は決して優しくない。
だから優しいことを期待されて依存されても困る。

私がしているのは自己承認と、個人的な観点からの憶測と事実の切り分けくらいのものだ。
「今こう思っている」「そっか、今こう思っているんだね」
これだ。ただこれだけのことなのだ。

これは理屈では割り切れない感情が存在することを前提として、その感情はそれとしてあっていい、とするための方法論の一つだ。
つまり、これは決して相手に寛容なわけではない。
ただ単に経験として、自分にそういう"割り切れない感情"が存在して、それを理論で押し潰そうとすることが苦痛を呼び、
その苦痛が良くない結果を招くということがあったから、私が勝手に相手にそうしているだけなのである。

誇れることではないかもしれないが、これが私なりに自覚して見出した、私の中の共感性羞恥との付き合い方であり、
苦痛を自分で勝手につくりあげ、外部に危害を及ぼすことがないようにととったライフハックなのである。

 

だから私は、私が人にできることなんてまったくないと思いながら生きている。
化物語という作品で忍野メメが言っていた「人は自分で勝手に助かるだけ」という考え方だ。

それで相手から「楽になった」「助かった」と言ってもらえたなら、私はそれとして嬉しいが、
それは本当に、相手が勝手に助かっただけで、私が救ったわけではないのである。

だから私は聖人ではない。救世主でもない。その期待は、正直もうあまり向けられたくないと、思ってしまうところである。

 

 

以上です。ありがとうございました。またなんか思うことがあったらまとめてみようと思います。またその時気が向いたようでしたら、お付き合いいただけると嬉しいです。

*1:他人の失敗を自分事のように感じてしまう心理状態のこと。家族や友人などの失敗はもちろん、ドラマで登場人物が恥をかくシーンや、バラエティ番組で芸人がスベる場面になると、見るのが辛くなってしまう感覚を指します。http://news.livedoor.com/article/detail/11995199/ 

※なおここでは「他者のつらいという感情への強すぎる共感」という意味合いでも使用しています。